広楽寺のあゆみ

明治期〜戦時期
(1896年〜1942年)

明治29年(1896)

広楽寺本堂にて、五代目尾上菊五郎一門による追善興行が行われ、お墓を移転拡充し、参道入口に記念碑を建てた。

明治31年(1898)

盲人にも近代教育が受けられるようにと、静岡県下初の盲学校「東海訓盲院」を広楽寺境内(肴町)に設立した。静岡県における特殊教育施設の公式許可第一号(全国で8番目)、後に県立の指定を受けて静岡市へ移設し、名称を「県立静岡盲学校」と改めて今にいたる。

大正3年(1914)

後藤南涯は郷土を代表する漢学書道の大家で、広楽寺の寺中光円寺に生まれ、法名を圓明という。また掛川電話局開設を始め、幕末から明治期に活躍した文明開化の理論学者で、掛川宿近代化の祖となる文人でもあった。
この年その生涯を閉じたため、徳を慕う多くの門弟により広楽寺境内に記念碑が建てられた。

昭和17年(1942)

住職が南支へ出征中に広楽寺の法鐘(重量約410kg)が供出され、その後の行方は不明。

江戸期 現在