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広楽寺のあゆみ
福田村広楽寺の時代

設立の年号は不詳ですが、静岡県榛原郡東福田の要地に天台宗の庵として設立。1235年(嘉貞1)この年親鸞聖人が関東より帰路の途中お立ち寄りになり、六字の名号を授けられる。1468年(応仁2)蓮如上人関東巡拝の際お立ち寄りになられる。1515年(永正12)実如上人より六字名号を授けられ、布教に勤めてこの地方の門徒を育成する。
江戸期の広楽寺

1600年(慶長5)徳川家康が幕府開設の頃、当寺住職祐浄は掛川藩の祐筆(書記官)となる。この時掛川市中町に所領を得る。またこの年榛原町では天台宗の一条院が真宗に改転し、川崎の照明寺として設立、今も「広楽寺は山の向こうに行ってしまった」と語り継ぐ古老がいます。
明治期の広楽寺

1896年(明治29)広楽寺本堂において、五代目尾上菊五郎一門による追善興行がおこなわれ、三代目菊五郎のお墓を移転拡充し記念碑を建立。1898年(明治31)盲人にも近代教育が受けられるようにと、広楽寺境内に静岡県で初めての盲学校「東海訓盲院」を設立。
現在の広楽寺

1974年(昭和49)掛川駅前土地区画整理事業により、この地(中央二丁目)への移転となり、現在にいたる。1992年(平成4)西林寺閉山のため、檀信徒は仏縁深い広楽寺に帰属した。1998年(平成10)広楽寺本堂および二の丸美術館にて、掛川市と共に三代目尾上菊五郎百五十回忌記念式を取り行った。
広楽寺ギャラリー
三代目尾上菊五郎

掛川で客死した三代目尾上菊五郎は、音羽屋の屋号を継いだ初代尾上松助の養子である。芸域が広くしっとりした恋愛模様の演技(和事)や「忠臣蔵」の大星由良助のような辛抱立役(世話物)を得意とし、狂言作者鶴屋南北と提携して怪談狂言も定着させた。とくに「東海道四谷怪談」は大当たりとなり、幽霊の「提灯抜け」「動く蛇」などの<仕掛け物>は現代の歌舞伎にそのまま用いられている。
五代目尾上菊五郎

梅幸百種
五代目尾上菊五郎の当たり役百種を選び、明治26年~27年に刷られた豊原国周の大錦絵(約25㎝×23㎝)を貼り、上には相手役のコマ絵(約10×12㎝)と阿心庵機吟の俳句が貼られています。広げると横幅12m前後の表裏にそれぞれ50種を貼った豪華帖装本になっています。九代目市川団十郎の当たり狂言百種を集めた「団十郎百番」にならって刊行された百枚の揃物で、時代ものだけでなく散切り物なども収められている貴重な資料です。
六代目菊五郎

六代目尾上梅幸
梅幸の名は初代以降代々菊五郎を名のる役者の俳号です。1882年(明治15)五代目菊五郎の養子となり、栄之助、榮三郎の名を経て、梅幸を襲名したのは三十三歳でした。女形でありながら座等に就任して、お富・三千歳・お岩・うんざりお松・切られお富など世話物で至芸を発揮しました。
広楽寺墓地のご案内
掛川市営富士見台 広楽寺区画

掛川市営富士見台霊園 広楽寺(3号)墓地
掛川市駅北整備事業により駅北寺院の境内墓地を集団移転して掛川市都市計画課が富士見台霊園をつくりました。広楽寺檀家のお墓も富士見台広楽寺区画へ移転しました。

大谷代浄園

掛川市領家字大谷代753番1
核家族少子化などにより、新規墓域と永代墓の双方が必要となり、平成7年に古くからご門徒の多い高御所近くに開設しました。

駒形浄園(初馬)

掛川市初馬字駒形753番
掛川市北部の方々のために開設しました。
菊川メモリアルパーク(河城浄園)

通常墓地・樹木葬・ペット葬
榛原から移住されてきた元広楽寺門徒が多く住む河城に平成16年に開設しました。
広楽寺の慶曜住職(文化11年~明治12年)は、京都嵐山の桜の種を境内に植え育てていたため、桜園上人と呼ばれていました。この地方の桜供養(樹木葬)の開祖とも言えるでしょう。