広楽寺のあゆみ

江戸期
(1600年〜1854年)

慶長5年(1600)

家康は幕府開設のために有能な者を召し抱え、祐浄は掛川藩の祐筆(書記官)となる。この時中町(現在の掛川城とJR掛川駅の中間付近)に所領を得た。
またこの年、榛原町では天台宗の一乗院が真宗に改転し、川崎の明照寺として設立。今も「広楽寺は山の向こうに行ってしまった」と語り継ぐ古老が居る。
※この時の所領は、徳川方に参加した功労だったように思われます。

慶長18年(1613)

本願寺教如上人より蓮如上人の御影を授かる。教如上人のお裏書きには、「遠州佐野郡懸河村惣道場」と記された。
※五十路近くなった祐浄住職は、息子三人を大坂冬の陣に参加させ、そのまま江戸幕府の官僚となったようです。

掛け軸

なぜこの時期に教如上人が下されたのか謎でしたが、どうやら「こたびも徳川様にお味方せえよ」とのことであろうと思っています。

元和6年(1620)

祐浄の長男、唯勝坊が任地の江戸神田にて分寺を創建するも、現地で没したため開基となる。
後の江戸今戸広楽寺は、初代尾上菊五郎の菩提寺ともなった。

寛永13年(1636)

広楽寺過去帳の法名は次の記載から始まっている。釋祐浄 當山中興開基也 69才二代目は、座頭職にあった三男の良存が継いだ。

寛永16年(1639)

西念寺は主君松平遠江守の転任に従い沢田村に居住していたが、広楽寺の援助を受けたため、この年掛川藩での職を最後とし、飯山へ伽藍を構えた。

慶安1年(1648)

大澤寺二代目住職の西念は平尾村の門信徒に招かれたため、成瀬藤蔵正義の四男祐伝を養子に迎えて大澤寺三代目住職とした。
西念は二人の子供を連れて平尾村に移住し、三光山西林寺を設立して開基となる。

慶安2年(1649)

岩手県気仙郡に正源寺を設立。開基は広楽寺浄祐の次男玄正である。任地のこちらで寺基の縁が出来たため、二度と掛川の広楽寺へは戻れぬ事を覚悟し、姓を掛川に改めたと正源寺由緒縁起に記載。

天和3年(1683)

良智は幼いころの病により目が不自由であった。父の良存は座頭職にあった縁もあり、盲人にも耳から仏の功徳が伝わるようにと「法鐘」を鋳造し、境内に奉縣した。
また一紙半銭の功徳を以て紫雲山西方寺の本尊を再興、江戸にて開眼供養をして亀惣川近くにお堂を建て、管理を阿彌陀寺に委ねた。

寛保4年(1744)

この年広楽寺は、寺領を中町から南西郷(現、紺屋町・肴町・駅前一帯)に移したと、文化2年編纂の『掛川誌稿』に記載。

享和3年(1803)

この年東本願寺にて編纂された『二十四輩順拝図絵』には『当国浜松の城下に福田山広楽寺とあり、福田村より引寺にして聖人由緒の地也とぞ』と記載。

嘉永2年(1849)

たまたま三代目尾上菊五郎は興行中に掛川の宿で亡くなった。妻と付き添いが訪ねてくると、何と初代の菩提寺である江戸今戸広楽寺はこちらの分寺であった。
不思議な因縁と喜んで境内(紺屋町)に墓を建てた。

安政1年(1854)

大地震により広楽寺の本堂・庫裏ともに倒壊。また西方寺のお堂も倒壊した。広楽寺は四国より御本尊をお迎えし、明治22年に本堂を紺屋町に落慶した。
西方寺は近郷の人々が念仏講を開いて御本尊を奉った。

戦国期 明治期