広楽寺のあゆみ
東福田時代
(年号不詳〜1570年)
年号不詳
静岡県榛原町東福田(古代細江郷)の要地に設立、元は天台宗とも真言宗とも語られる。
この地方は古代からそれぞれの河川周辺にいくつもの郷があり、細江郷は河口付近の砂州地域で、海岸では燃料となる流木をよく採取できたらしい。近くには条里田もあり、「福田」とは献米の田という意味があるらしい。
『静岡県榛原町史 上巻』には「文暦元年、親鸞は東国から京都に帰ろうとして、東海道の大井川を下流で渡り初倉庄坂口谷川(さぐちがわ)下流についた。たまたま、観音堂に宿泊しその住僧を教化して浄土真宗(一向宗)に帰依させたという。
これは称名念仏が郷土に流入した最初であるばかりでなく、鎌倉仏教が直接この地方に流入したものとして注目される。」とある。
嘉禎1年(1235)頃
親鸞聖人御帰洛期
広楽寺の由緒縁起によれば、この年親鸞聖人が関東よりご帰洛の途中お立ち寄りになり、六字の名号を授けられて秘宝とした。
親鸞聖人が善信坊と名乗っておられたころの御影付き名号です。
宮村(掛川市八坂)の念仏道場
『掛川誌稿』には、「常陸の国真壁の真仏聖の弟子、東海房專信が開基。
その後弟子が道場を建立し、覚如上人が関東下向の時に尋ねられて智海山深廣寺となずけられたが、その後僧侶が転出して在家となった。」と記されている。
この三方正面阿弥陀如来像も太子眷属・高僧連座像も、室町時代より前の様式で、覚如・存覚(1300年代前半)のものだそうです。
これらの絵像は、愛知県西部から静岡全県の真宗全宗派寺院を探しても1つ有るか無いかで、2種類揃っているのは驚嘆するそうです。
応仁2年(1468)頃
蓮如上人関東御巡拝
蓮如上人、関東巡拝の際お立ち寄りになり、ご教化を受け帰順、六字名号を授けられた。
室町の表装のまま大切に仕舞っていましたが、「今ならまだ再表装できるので、急ぎ京都にて表装しなおしてください。」とのことで、平成5年に表装し直しました。元の室町表具も残してあります。
永正12年(1515)頃
実如上人御勧化期
実如上人より六字名号を授けられ、布教に勤めてこの地方の念仏門徒を育成した。
『高天神城実戦記』を現代語訳した鵜藤満夫さんが、「榛原の広楽寺周辺では、実如期に念仏宗が活発だった」と教えてくれました。
永禄1年(1558)
天台宗本楽寺(安城市)の僧祐寿は、甥である近江国の郷士今井権七郎の勧めにより、この年真宗に改宗。
榛原町の広楽寺へ入寺、後にこの寺で生まれた長男の祐浄は広楽寺の跡継ぎと定められることになる。
元亀1年(1570)
織田信長が自治都市大阪の中心、石山寺内町へ大軍を以て襲い掛かった、世に言う本願寺十年戦争である。
この時顕如上人に従い、信長軍と戦った武将の中に今井権七郎もいた(西本願寺所載)。