広楽寺のあゆみ
戦国期
(1571年〜1581年)
元亀2年(1571)
武田信玄が駿遠の覇権を確立し始め、この年信玄は小山(吉田町)に砦を築く。
この時広楽寺は武田水軍の輸送基地として使われたため、祐寿は4才の祐浄を連れて菊川町の平尾村に一時避難した。しかし高天神城の城主小笠原長忠の招きを受けるにより、陣僧として紫雲山西方寺を任された。
市史編纂室長だった桐田栄先生によれば、武田は水軍の創設に意欲的で、小山周辺の測量をもとにして甲斐で砦を組み立て、武田水軍が解体していかだを組んで川を下り、駿河湾に出て坂口谷川の広楽寺を接収し、境内に陸揚げ集積した物資を小山まで運んで砦を築いたそうです。
現在の小山城は観光用に作られたもので、本来は砦でした。
天正2年(1574)
武田勝頼により高天神城は開城し、武田支配下となる。祐寿はこの時勝頼に召し抱えられて平尾村の地を安堵、甲斐の国へ同行する。
天正8年(1580)
今井権七郎は出家し、顕如上人より浄了の法名を賜る。
従兄弟の祐浄が住む平尾村に赴き、ここに祐浄とともに本楽寺を再興し、後に開基となる。
天正9年(1581)
実如上人のお内仏用名号です。
広楽寺由緒には「甲遠兵災」と記されています。
高天神城は徳川家康により落城。本楽寺も焼失し、浄了は宝物を持って相良町の大澤に避難、後に地名を取って大澤寺と改める。
広楽寺に残る西方寺縁起に依れば、この時西方寺も荒廃したため、祐浄は小庵を建てて傷んだ本尊を奉安した。