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菊五郎ギャラリー

斧に琴と菊を配して「良きこと聞く」の模様。それに『重ね扇に抱き柏』の紋所は、いわずと知れた尾上菊五郎一座である。
音羽屋の屋号は、初代が音羽山や音羽の滝に因んだ京都の出であったことによる。初代市川団十郎の「鳴神」に、雲の絶間姫を演じ大評判をとって以来、団菊コンビは明治までつづいた。
掛川で客死した三代目菊五郎は、初代尾上松助の養子である。芸域が広くしっとりとした恋愛模様の演技(和事)や「忠臣蔵」の大星由良之助のような辛抱立役(実事)のほか女形もこなす、すぐれた「兼ネル」役者であった。江戸の市井の出来事(世話物)を得意とし、狂言作者鶴屋南北と提携して、退廃的ムードのなかで刺激を求める文政期に生きる庶民の要望に応え、怪談狂言を定着させた。とくに「東海道四谷怪談」は大当たりとなり劇中、戸板返しの〈早替り〉や幽霊の「提灯抜け」「動く蛇」などの〈仕掛物〉は、いまでもそのまま用いられている。
忠臣蔵六段目で、勘平が腹に刀を立てながら、「色にふけったばっかりにー」と、血のりの手で、己が頬を打つと、色白の顔に鮮血の指跡がついて凄惨さを増すという「型」など、現在もその演出技法は三代目創案として有名である。
あるとき、彼は楽屋で鏡をみながら「俺はなんていい男なんだろう」とつぶやくほど容姿も別格であった。尾上家の芸が怪談物と世話物にあると後世にいわれるようになった元締め、大看板が三代目菊五郎であった。

筆者 武田桜園、法名は慶曜、文化11年(1814)生まれ、詩歌・学問・書道・墨画にすぐれ晩年、墨翁と称す。広楽寺住職をつとめ明治12年(1879)没。絵は嘉永2年(1849)、三代目没後に描いたもの。坊主頭になっているのは、めずらしい。あの世で仏果を得た姿であろう。江戸時代、役者や作家などが亡くなると追善、記念のため似顔絵を摺って売り出した。これも一種の「死絵」のたぐいであろう。

役者は昔から書・画・俳諧をたしなむ文人であり、粋人でもあった。稲穂がよく育ち、いまや人の背丈ほどもある。今年は豊作で結構ですな。「阿たり」は当然「当たり」で、大当たりとか、当たり狂言、当たり年などの意。逆に「する」は江戸の忌み詞。髭を当たる、当たり目をあぶる、当たり鉢など。芝居はとくに縁起をかつぐ。

夜の軒下に掛かった提灯がボッと燃えると、後ろから戸板へ腹這いに乗ったお岩が飛び出してくる。
正面から見た観客は「幽霊に足が無い!」、この伝聞は日本中を駆けめぐったそうで、北斎も三代目さんの公演前までは幽霊に足を描いていたが、公演後は足を描かなくなったそうです。
三代目さんが極めて優れた役者で有るばかりでなく、常識外れの演出家であった事を示す演目でもあります。