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広楽寺のあゆみ

東福田の広楽寺
設立
年号不詳。静岡県榛原町東福田の要地に天台宗の庵として設立。※
現在は付近に住む人々がお堂を建て、広楽寺の本地と語り継いでいる。
1235年(嘉貞1)
広楽寺の由緒縁起によれば、この年親鸞聖人が関東よりご帰洛の途中お立ち寄りになり、六字の名号を授けられて秘宝とした。
1468年(応仁2)
蓮如上人、関東巡拝の際お立ち寄りになり、ご教化を受け帰順、六字名号を授けられた。
1515年(永正12)
実如上人より六字名号を授けられ、布教に勤めてこの地方の念仏門徒を育成した。
1558年(永録1)
天台宗本楽寺(安城市)の僧祐寿は、甥である近江国の郷士今井権七郎の勧めにより、この年真宗に改宗。榛原町の広楽寺へ入寺、後にこの寺で生まれた長男の祐浄は広楽寺の跡継ぎと定められることになる。
1570年(元亀1)
織田信長が自治都市大阪の中心、石山寺内町へ大軍を以て襲い掛かった、世に言う本願寺十年戦争である。この時顕如上人に従い、信長軍と戦った武将の中に今井権七郎もいた(西本願寺所載)。
戦国期の広楽寺
1571年(元亀2)
武田信玄が駿遠の覇権を確立し始め、この年信玄は小山(吉田町)に砦を築く。この時広楽寺は武田水軍の輸送基地として使われたため、祐寿は4才の祐浄を連れて菊川町の平尾村に一時避難した。しかし高天神城の城主小笠原長忠の招きを受けるにより、陣僧として紫雲山西方寺を任された。
1574年(天正2)
武田勝頼により高天神城は開城し、武田支配下となる。祐寿はこの時勝頼に召し抱えられて平尾村の地を安堵、甲斐の国へ同行する。
1580年(天正8)
今井権七郎は出家し、顕如上人より浄了の法名を賜る。従兄弟の祐浄が住む平尾村に赴き、ここに祐浄とともに本楽寺を再興し、後に開基となる。
1581年(天正9)
高天神城は徳川家康により落城。本楽寺も焼失し、浄了は宝物を持って相良町の大澤に避難、後に地名を取って大澤寺と改める。広楽寺に残る西方寺縁起に依れば、この時西方寺も荒廃したため、祐浄は小庵を建てて傷んだ本尊を奉安した。
江戸期の広楽寺
1600年(慶長5)
家康は幕府開設のために有能な者を召し抱え、祐浄は掛川藩の祐筆(書記官)となる。この時中町(現在の掛川城とJR掛川駅の中間付近)に所領を得た。またこの年、榛原町では天台宗の一乗院が真宗に改転し、川崎の明照寺として設立。今も「広楽寺は山の向こうに行ってしまった」と語り継ぐ古老が居る。
※この時の所領は、徳川方に参加した功労だったように思われます。
1613年(慶長18)
本願寺教如上人より蓮如上人の御影を授かる。教如上人のお裏書きには、「遠州佐野郡懸河村惣道場」と記された。
※五十路近くなった祐浄住職は、息子三人を大坂冬の陣に参加させ、そのまま江戸幕府の官僚となったようです。
1620年(元和6)
祐浄の長男、唯勝坊が任地の江戸神田にて分寺を創建するも、現地で没したため開基となる。後の江戸今戸広楽寺は、初代尾上菊五郎の菩提寺ともなった。
1636年(寛永13)
広楽寺過去帳の法名は次の記載から始まっている。釋祐浄 當山中興開基也 69才 二代目は、座頭職にあった三男の良存が継いだ。
1639年(寛永16)
西念寺は主君松平遠江守の転任に従い沢田村に居住していたが、広楽寺の援助を受けたため、この年掛川藩での職を最後とし、飯山へ伽藍を構えた。
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1648年(慶安1)
大澤寺二代目住職の西念は平尾村の門信徒に招かれたため、成瀬藤蔵正義の四男祐伝を養子に迎えて大澤寺三代目住職とした。西念は二人の子供を連れて平尾村に移住し、三光山西林寺を設立して開基となる。
1649年(慶安2)
岩手県気仙郡に正源寺を設立。開基は広楽寺浄祐の次男玄正である。任地のこちらで寺基の縁が出来たため、二度と掛川の広楽寺へは戻れぬ事を覚悟し、姓を掛川に改めたと正源寺由緒縁起に記載。
1683年(天和3)
良智は幼いころの病により目が不自由であった。父の良存は座頭職にあった縁もあり、盲人にも耳から仏の功徳が伝わるようにと「法鐘」を鋳造し、境内に奉縣した。また一紙半銭の功徳を以て紫雲山西方寺の本尊を再興、江戸にて開眼供養をして亀惣川近くにお堂を建て、管理を阿彌陀寺に委ねた。
1744年(寛保4)
この年広楽寺は、寺領を中町から南西郷(現、紺屋町・肴町・駅前一帯)に移したと、文化2年編纂の『掛川誌稿』に記載。
1803年(享和3)
この年東本願寺にて編纂された『二十四輩順拝図絵』には『当国浜松の城下に福田山広楽寺とあり、福田村より引寺にして聖人由緒の地也とぞ』と記載。
1849年(嘉永2)
たまたま三代目尾上菊五郎は興行中に掛川の宿で亡くなった。妻と付き添いが訪ねてくると、何と初代の菩提寺である江戸今戸広楽寺はこちらの分寺であった。不思議な因縁と喜んで境内(紺屋町)に墓を建てた。
1854年(安政1)
大地震により広楽寺の本堂・庫裏ともに倒壊。また西方寺のお堂も倒壊した。広楽寺は四国より御本尊をお迎えし、明治22年に本堂を紺屋町に落慶した。西方寺は近郷の人々が念仏講を開いて御本尊を奉った。
明治期の広楽寺
1896年(明治29)
広楽寺本堂にて、五代目尾上菊五郎一門による追善興行が行われ、お墓を移転拡充し、参道入口に記念碑を建てた。
1898年(明治31)
盲人にも近代教育が受けられるようにと、静岡県下初の盲学校「東海訓盲院」を広楽寺境内(肴町)に設立した。静岡県における特殊教育施設の公式許可第一号(全国で8番目)、後に県立の指定を受けて静岡市へ移設し、名称を「県立静岡盲学校」と改めて今にいたる。
1914年(大正3)
後藤南涯は郷土を代表する漢学書道の大家で、広楽寺の寺中光円寺に生まれ、法名を圓明という。また掛川電話局開設を始め、幕末から明治期に活躍した文明開化の理論学者で、掛川宿近代化の祖となる文人でもあった。この年その生涯を閉じたため、徳を慕う多くの門弟により広楽寺境内に記念碑が建てられた。
1942年(昭和17)
住職が南支へ出征中に広楽寺の法鐘(重量約410kg)が供出され、その後の行方は不明。
現在の広楽寺
1974年(昭和49)
掛川駅前土地区画整理事業により、この地(中央二丁目)ヘの移転となり、現在にいたる。
1992年(平成4)
西林寺閉山のため、檀信徒は仏縁深い広楽寺に帰属した。
1998年(平成10)
広楽寺本堂および二の丸美術館にて、三代目尾上菊五郎百五十回忌記念式を執り行った際、寺島事務所(七代目尾上菊五郎)より縁の品々が送られてきた。